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周囲約25キロ、最大水深163メートルの中禅寺湖は、日光を代表する湖である。水面の海抜高度1269メートルは、日本一の高さを誇る(ただし、人工湖を除く面積4平方キロ以上の湖のなかで)。約2万年もの昔、男体山-なんたいさん-の噴火による溶岩で渓谷がせき止められ、原形ができたといわれる。
発見されたのは天応-てんおう-2(782)年。日光開山の祖、勝道上人-しょうどうしょうにん-が男体山の登頂に成功したとき、山の上から湖の存在を見つけた。2年後には勝道上人一行が、湖畔に堂を造り神宮寺-じんぐうじ-が建立-こんりゅう-された。以来、山岳信仰の修験者たちが訪れ、船禅頂-ふなぜんじょう-(湖に船を浮かべて読誦-どしょう-し湖畔-こはん-の社堂を巡る)もおこなわれるようになった。そして中世から近世にかけては修験道が隆盛し、男体禅頂-なんたいぜんじょう-も盛んに繰り返された。
しかし豊臣秀吉の日光山領没収によって、日光は一時衰微する。再び活性化されるのは、天海大僧正-てんかいだいそうじょう-の来晃-らいこう-(晃=日光の略)と東照宮造替の後だ。寛保-かんぽう-元(1741)年に行人-ぎょうにん-(禅頂をする人)利用のための茶屋の営業が許可され、文化元(1804)年には湖畔に六軒茶屋ができた。ただし、このころは人が住んでいたのは春から秋まで、冬には下山していた。
大きな変革が訪れるのは、明治5(1872)年に女人牛馬禁制-にょにんぎゅうばきんせい-が解かれてからである。さっそく女性が、中禅寺湖畔や男体山へと登った。明治に入るまで女性がいなかったため、中禅寺で出産が初めて記録されているのは、じつに明治17(1884)年だった。この間、明治9(1876)年に明治天皇が来晃され、中禅寺湖を“幸の湖-さちのうみ-”と名づけている。
来訪者も飛躍的に増えてきたが、中禅寺湖周辺をリゾート地として育てていったのは外国人である。欧米各国の外交官たちが避暑に訪れるようになり、湖畔に別荘を建てていった。現在でもフランスやベルギーなど4か国の大使館別荘が、湖畔にたたずんでいる。日光での釣りやゴルフを目的にした「東京アングリング・アンド・カントリークラブ」には、国内外のそうそうたるメンバーが名を連ねていた。中禅寺湖周辺はハイクラスな人が集まる華やかなリゾート地として、その地位を確立していった。
しかし、それも第2次世界大戦の影響で、失速してしまう。戦後の観光地としての復活は、昭和29(1954)年のいろは坂有料道路開通など道路網の整備によるところが大きい。風光明媚-ふうこうめいび-かつ手軽にアプローチできる観光地として、現在の姿に至っている。 |
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